円融寺(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました
法性山 円融寺(→神奈川県川崎市高津区子母口)は、北条氏綱統治下の1532(天文3)年に池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の9代住職日純によって開山されたと記される日蓮宗寺院です。創建寺は真言宗寺院だったようですが、その住職の正善坊と日純が問答をした結果、日蓮宗に改宗したと伝わります。
円融寺は過去に何度か火災で本堂を焼失したらしく、近世では文化年間(→1804年~1818年)に、近代では太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月15日の川崎大空襲により伽藍が焼失し、かろうじて過去帳のみが焼失を免れたといいます。当時の住職らが過去帳を戦火から守ろうと防空壕に移したのでしょう。子母口の空襲については川崎市発行の『川崎空襲 戦災の記録』の「子母口伊東いよ様手記」に次のように記されています。
*************************
昭和20年(→1945年)4月15日の真夜中、ついに子母口も敵機の餌食となってしまいました。空襲警報の不気味なサイレンの響きの後、間もなく西方から侵入したB29の大編隊は次々と爆弾・焼夷弾の雨を降らし、15日午後11時半ごろ、まず火の手は朝日前の円融寺(当時、川崎の川中島国民学校の教師・生徒が約40名余り集団疎開していました)他3軒から上がり、それからその線上を東へ植之台の蓮乗院が爆弾で吹き飛び、……(中略)……、次いで根方の森武三さんほか2軒もほとんど同時に燃え上がり、地元の消防団の必死の消火活動も、人手不足と、被災地が広範囲のため思うようにならず、ついに皆全焼してしまいました。
*************************
円融寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡子母口村の条に次のように記されています。
***************************
子母口村
円融寺
村の中央より未申(→南西)の間字下の寺と云(いう)所にあり、法性山と号す、日蓮宗にて池上本門寺の末、開山は日純上人と云(いう)、天文五年(→1536年)三月二十一日寂す、本尊は釈迦坐像にて長(ながさ)一尺八寸(→約54cm)ばかり作詳(つまびらか)ならず、客殿七間に六間東向(ひがしむき)なり、古(いにし)へ此寺は修験者にて正善坊といへり、前にのする蓮乗院の境内にある不動堂の不動は、此寺の修験たりし時のものなりといひ伝ふ、今も不動免と云(いう)田字朝日前の内にあり、此説うけがたし、開山上に修験正善坊とあれば、はるかに後のことなり、尤うたがふべし。
番神堂
門に入て右の方にあり、二間に二間半、番神の大(おおき)さ三寸(→約9cm)ばかり立像なり、前に木の鳥居をたつ。
***************************
【円融寺の山門】

【円融寺の本堂】






【円融寺の境内社(福徳稲荷)】






【円融寺の境内社(子育て地蔵尊)】


【円融寺の境内】






スポンサーサイト

コメント