観音寺(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました
諏訪山 普門院 観音寺(→神奈川県横浜市都筑区東山田4丁目)は、平安時代前期の貞観年間(→859年~877年)に「顕密の博士」と称された僧の安然が創建したと伝わる天台宗寺院です。
一説には、信濃国諏訪の僧・堯観が山田の沢に霊地を求めて、大樹の根本に草庵を結んだとありますが、真偽の程は定かではありません。ただし、本尊の聖観音菩薩立像は、神仏習合の頃は諏方明神像の胎内に安置されていたと伝わるので、山号にもなっている諏訪大社(あるいは勧請した諏訪神社)との繋がりを見てとれます。
観音寺は、本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担い、また現在の山田神社(→神奈川県横浜市都筑区南山田)の前身となる諏訪社・稲荷十社(うち2社)など7社の別当寺を勤めました。
観音寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡山田村の条に次のように記されています。
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山田村
観音寺
除地、一段歩許(ばかり)、字徳持谷にあり、多磨郡深大寺村深大寺末、諏訪山と称す、開山は僧安然にて貞観年中(平安時代前期→859年~877年)に開基せりと、本尊正観音立像にて長(ながさ)七八寸(→約21~24cm)ばかり、客殿六間に七間半巽(→東南)に向ふ、前に石階あり、境内生天の裾に六尺四方許(ばかり)の穴あり、ここを入ること三間許(ばかり)にして又岩穴あり、二丁許(ばかり)を入る、其処(そのところ)は四坪ばかりの間清水がたたへりとぞ、墓所に断碑四枚あり、内に建武四年(南北朝時代→1337年)としるすもの一枚、余(ほか)は漫滅(→磨滅)して定かによむべからず。
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【観音寺の山門】



【観音寺の本堂】




【観音寺の鐘楼】



【観音寺の境内社(稲荷社)】


【観音寺の境内】



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↓↓本山の浮岳山 昌楽院 深大寺について
↓↓諏訪山 観音寺が別当寺を務めた14社(現山田神社)
↓↓7社(現山田神社)の別当寺を務めた妙見山 不動院 長泉寺


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