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三宝寺廃寺(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

三宝寺廃寺(→神奈川県横浜市都筑区東山田町)は、江戸時代には神田山 幡随院 新知恩院(→東京都千代田区神田駿河台、現在は東京都小金井市前原町に移転)の末寺として幕藩体制の一翼を担った東林山 三宝寺(浄土宗)の跡地です。明治時代初期の廃仏毀釈によって廃寺となったといい、跡地には東山田町公民館が建っています。 

三宝寺は創建年代等は不詳ですが、1159(平治元)年の平治の乱に敗れ、逃亡先の尾張国で源義朝(→源頼朝の父)と一緒に殺害された、義朝の家人で乳母子の鎌田政清の百回忌追福供養の際に建立された石碑があったと記されます。石碑には『建長七年乙卯秋日寺主良範右為主君聖霊出離往生極楽造立如件』とあり、住職の良範(りょうはん)が鎌倉時代中期の建長7年(1255年→5代執権北条時頼の治世)に建立したことが分かります。


三宝寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡山田村の条に次のように記されています。

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山田村
三宝寺
除地一段五畝歩、小名殿谷にあり、浄土宗江戸下谷幡随院末、東林山と称せり、寺伝に云(い)ふ、永暦元年(平安時代後期→1160年)源義朝の臣鎌田兵衛正清(→鎌田政清)死せし後かの菩提を弔ひしが、遥の後建長七年(鎌倉時代中期→1255年)百回忌(→実際は95回忌)辰の時、彼が臣其(その)追福のために石碑を建立せしと云(い)ふ、年代をおすに正清(→政清)が百年忌は正和元年(→正元2年=1260年の誤記)にて建長七年より五年の後なり、疑ふべし、其頃の住僧を良範とよびしよし記せり、その石碑は今客殿に収めおけり。

銘文に『建長七年乙卯秋日寺主良範右為主君(→鎌田政清)聖霊出離往生極楽造立如件』とあり、中興開基は仏誉常心、正保二年(江戸時代前期→1645年、3代将軍徳川家光の頃)三月十二日寂せり、客殿四間四方、東に向へり、本尊聖観音、座像にして長(ながさ)一尺(→約30cm)、弘法大師(→空海)の作にして正清(→政清)の守本尊のよしいひ伝へり。

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【三宝寺廃寺】
三宝寺廃寺6

三宝寺廃寺1

三宝寺廃寺2

三宝寺廃寺3

三宝寺廃寺4

三宝寺廃寺5



【廃寺跡に建つ公民館】
三宝寺廃寺7


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↓↓鎌田政清の館跡に建つ鎌田堂


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