大英寺(長野県長野市松代町)を訪問しました
皓月山 大英寺(→長野県長野市松代町)は、江戸時代前期の1622(元和8)年に初代松代藩主真田信之が、妻の小松姫(稲姫→徳川家康養女、本多忠勝の娘)の菩提を弔うために創建した浄土宗寺院です。1620(元和6)年2月24日に死去した小松姫は上田の常福寺(→現在の芳泉寺)に祀られましたが、1622(元和8)年に信之が松代に移封されたため、小松姫の御霊屋も大英寺に移されました。山号は小松姫の戒名「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」から採っています。江戸時代には大伽藍がありましたが、明治維新の後、真田家の援助や寺領が無くなったため、大きな寺の維持が困難となり、いくつもの堂宇を取り壊し、小松姫の御霊屋を本堂にし、残りの材で庫裏を造ったようです。
ところで小松殿といえば、次のような逸話が『長国寺殿御事蹟稿』『大蓮院殿御事蹟稿』などに残されています。1600(慶長5)年7月に、徳川方を離反した真田昌幸(→信之の父)・信繁(→信之の弟)らが信之の居城沼田城を乗っ取ろうと目論んだ所、留守を預かる信之正室小松殿は夫信之が同道していないことや、夫から何の連絡もないことなどから、舅昌幸の行動を怪しみ入城を拒み、もし無理に城に入ろうとするなら舅といえど一戦も辞さぬと戦闘準備を整えさせ、昌幸を閉口させ、昌幸・信繁らを沼田から去らせたといいます。
しかし、これが事実かどうかは疑いがあり、豊臣政権下の諸大名は妻子が伏見屋敷(のちに大坂屋敷)に住んでおり、1600(慶長5)年7月30日付の真田昌幸宛大谷吉継書状に「信幸(※関ケ原合戦前は「信幸」)の妻子を保護した」と記されています。人質の妻は通常正室が送られるため、小松姫が1600(慶長5)年7月に真田昌幸・信繁らの入城を拒んだという逸話は、時期的に無理があるように思われます。
【小松姫の肖像(画像提供: 大英寺)】

【大英寺の山門(表門)】




【大英寺の本堂】


【大英寺の小松姫御霊屋】




【大英寺の鐘楼】


【大英寺の境内】






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大英寺の辺りには、明治時代後期の1909(明治42)年創業の松代製糸改良組再繰工場がありました。



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