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三増合戦史跡(神奈川県愛甲郡愛川町)を訪問しました

三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利明神などがあります。


〖三増合戦〗
1569(永禄12)年10月1日、北条領国に侵攻した武田信玄は、北条氏の本拠地である小田原城(→神奈川県小田原市)を攻撃しました。信玄の小田原侵攻は北条氏康氏政父子にとって予想外の事態であったようで、当時北条軍は、関東の兵力を武田・徳川両氏の攻撃で滅亡間際に追い込まれていた駿河今川氏(※)への加勢として派遣しており、相模・武蔵の兵力は手薄でした。※今川氏真(いまがわうじざね)の正室は北条氏康の長女蔵春院(ぞうしゅんいん→北条氏政の同母妹とも)で、北条氏政の正室は武田信玄の長女黄梅院(おうばいいん)という姻戚関係にありました。

信玄は、兵力が増強された駿河にまともに侵攻すれば被害が大きくなることを知っており、小田原侵攻で北条氏を揺さぶり、相模・武蔵・上野の防御を強化させ、北条軍の駿河からの兵力撤収を実行させようとしたのです。信玄は、北条父子を脅かすことで十分と考えていたようで、甲府への退路を北条氏に遮断される前に、甲斐へ撤退することにしました。

10月4日、信玄は全軍を小田原から撤収させ、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣するとの虚報を流して、実際には津久井筋に向けて進みました。北条氏康氏政父子は、信玄を追撃すべく出陣の準備を急ぎます。武田軍は、津久井筋の寺社や村々を放火しながら三増峠を目指して進軍し、5日には付近に到着しました。

一方、北条氏照(うじてる→氏康三男)・北条氏邦(うじくに→氏康五男)・北条綱成(つなしげ→氏綱娘婿)らの軍勢は、武田軍を三増峠で待ち伏せていました。信玄は、この情報を三増に向かう街道筋で捕えた捕虜から聞き出していたようで、兵力の少ない氏照らの手勢では武田軍を補足・殲滅することはできないと判断し、5日の夕刻には三増に押し寄せました。

北条軍は、自軍を上回る兵力の武田軍と正面から衝突することを避け、半原(→神奈川県愛甲郡愛川町)などに移動し、武田軍に三増峠への道を空けてしまいました。そこで、武田軍は夜半のうちに三増峠、中峠、志田峠とその麓周辺に軍勢を展開させます。この様子を見ていた北条氏照らは、武田軍を取り逃がしてしまうことを恐れ、半原から移動して武田軍を背後から襲う作戦をとりました。

信玄は、三増峠を降りた場所を、北条氏の有力国衆である津久井城主内藤氏の軍勢に封鎖されることを恐れていました。もし津久井内藤氏が峠を封鎖していたら、武田軍を峠道で前後を挟撃し、撃破することができたでしょう。そこで、信玄は6日早朝、重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)、西上野国衆の小幡信真(おばたのぶざね)らを、志田峠を経由して津久井方面に派遣し、峠麓の様子を確認させました。山県らが志田峠を越える様子は、北条氏照氏邦兄弟からもよく望見されました。しかし、北条方は、信玄が逃げ出していると誤認し、早朝に決着をつけようと、武田軍への攻撃を開始しました。こうして始まったのが三増合戦(→三増峠の戦い)です。

武田軍は、重臣浅利信種(あさりのぶたね→西上野箕輪城代)が流れ弾に当たって戦死しましたが、峠麓に敵影がないことを確認した山県勢が引き返してきて横合いから北条軍を攻めたため、兵力で劣る北条軍は総崩れになって敗退しました。北条氏政は、本隊を率いて信玄の跡を追い、荻野(→神奈川県厚木市)に到着していましたが、ここで氏照らの敗北を知り、追撃を中止しました。

三増合戦(三増峠の戦い)における戦死者は、『甲陽軍鑑』には武田軍は900人、北条軍は3269人とありますが、『諏訪家文書』『信玄書状』『北条五代記』などより武田軍は約1000人、北条軍は約2000人の犠牲であったことが分かります。ただし、武田軍は北条氏照らに勝利したとはいえ、重臣の浅利信種(西上野箕輪城代)が戦死し、1000余の戦死者を出したため、武田氏重臣の海津城代春日虎綱(かすがとらつな→高坂弾正)は、「御かちなされて御けがなり(→勝ちはしたが損害も大きかった)」と総括しました。

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【三増古戦場】
三増合戦場碑1

三増合戦場碑13

三増合戦場碑14

三増合戦場碑15

三増合戦場碑16



【三増合戦場碑】
三増合戦場碑2

三増合戦場碑3

三増合戦場碑4

三増合戦場碑5

三増合戦場碑6

三増合戦場碑7

三増合戦場碑8

三増合戦場碑9



【供養塔】
三増合戦場碑10

三増合戦場碑11

三増合戦場碑12



【首塚】
三増合戦の首塚・胴塚1

三増合戦の首塚・胴塚2

三増合戦の首塚・胴塚3

三増合戦の首塚・胴塚4

三増合戦の首塚・胴塚5

三増合戦の首塚・胴塚6

三増合戦の首塚・胴塚7

三増合戦の首塚・胴塚8



【胴塚】
三増合戦の首塚・胴塚9


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↓↓浅利明神について

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