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川中島古戦場八幡社(長野県長野市)を訪問しました

川中島古戦場八幡社(→長野県長野市小島田)は、戦国時代に武田信玄上杉謙信が争った5回の川中島合戦のうち最も著名な1561(永禄4)年9月10日の第四次川中島合戦の舞台となった八幡原(はちまんぱら)古戦場跡に建立された神社です。八幡原(はちまんぱら)の由来は、平安時代中期の1094(嘉保元)年8月に信濃国に配流された村上顕清(むらかみあききよ)が八幡神を祀った事によります。現在の社殿は1941(昭和16)年に長野県上田市の生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)から移築したものです。

〖祭神〗
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
 →いわゆる八幡神こと応神天皇
建御名方命(たけみなかたのみこと)


【川中島古戦場八幡社の鳥居】
川中島古戦場八幡神社2

川中島古戦場八幡神社1

川中島古戦場八幡神社3



【川中島古戦場八幡社の社殿】
川中島古戦場八幡神社7

川中島古戦場八幡神社6

川中島古戦場八幡社1

川中島古戦場八幡社2

川中島古戦場八幡神社4

川中島古戦場八幡神社5



【川中島古戦場八幡社の境内】
川中島古戦場10

川中島古戦場12



【一騎討ち像】
NHK大河ドラマ「天と地と」で第四次川中島合戦が放映されることを機に、1969(昭和44)年に建立された銅像です。武田信玄と上杉謙信(→当時は上杉政虎)が一騎討ちをしたという伝説をモチーフにしています。「毘」と「龍」は上杉方の軍旗、「風林火山」(孫子の旗)は武田方の軍旗です。

川中島古戦場1

川中島古戦場2

川中島古戦場3

川中島古戦場4

川中島古戦場8

川中島古戦場9

川中島古戦場11

川中島古戦場5

川中島古戦場7



【三太刀七太刀之跡の石碑】
伝承では第四次川中島合戦の折、上杉謙信(→当時は上杉政虎)は自ら単騎で武田信玄の本陣に攻め込み、太刀で信玄を三度斬りつけ、信玄は腰掛にかけたまま手にした軍配でそれを受け止めたといいます。後に軍配を調べてみると刀のあとが七カ所あったことから「三太刀七太刀」と名付けられたようです。石碑は武田信玄と上杉謙信(→当時は政虎)が一騎討ちをしたという伝説をもとに作られています。

三太刀七太刀の石碑1

三太刀七太刀の石碑3



【執念の石】
伝承では一騎討ちの際に、武田家臣原大隅守は信玄に向かって斬りかかる謙信に対しとっさに信玄の脇にあった槍を取って謙信を刺そうとしたが外れてしまい、謙信を取り逃がした悔しさのあまり傍らにあった石を手持ちの槍で突き通したといわれています。もちろん、武田信玄と上杉謙信(→当時は政虎)が一騎討ちをしたという伝説から作られた創作と思われます。

執念の石1

執念の石2月

執念の石3



【首塚】
第四次川中島合戦の激戦後、武田方の海津城代春日虎綱(→いわゆる高坂弾正)が敵味方の区別なく死骸や散乱した武具を集めて埋葬したと伝わる塚で、「甲越直線之地」と刻まれた石碑が建てられています。防疫と治安の観点から合戦後はすぐに敵味方の区別なく死骸や散乱する装備品を撤去するのが慣習でした。

川中島首塚1

川中島首塚2



【逆さ槐(えんじゅ)】
本殿の右前方にある古木(二代目)で、武田信玄が本陣を築く際に防御の乱杭として打ち込んだ1本の槐の杭が、そのまま根が出て巨木になったと伝わるものです。

逆さ槐1

逆さ槐2


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なお、第四次川中島合戦そのものは武田方が1枚も感状を発給していないことからも上杉方の勝利であったと言えますが、上杉氏はこの戦術的勝利を活かすことができず、かえって合戦に敗れた武田方が戦後、甲相同盟(→武田信玄と北条氏康の同盟)を後ろ盾に攻勢に出ています。信玄は川中島地方を維持したのみならず、北条氏康の要請を受けて同年11月に西上野(→群馬県西部)に出兵して関東の上杉方を攻撃しています。このことからも、北信争奪戦は武田方の戦略的勝利だったといえます。


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