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浅利明神(神奈川県愛甲郡)を訪問しました

浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」と刻んだ墓標を建てたのが始まりと伝わります。その後、1789(寛政元)年に村民が墓の付近で小さな壺を見つけ、それが浅利の遺骨を納めた骨壺であるとして金山原(かなやまはら)の下に埋め、碑を建て、覆屋を設けたようです。戦前には武神として崇められ、立願成就の際には木の太刀を納める習わしがあったと伝わります。

〖浅利信種〗
浅利氏は甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷を本拠とした一族です。『甲陽軍鑑』によると、信種は騎馬120騎の侍大将で、信濃侵攻において手柄を挙げた人物だといいます。武田家中では奉行のほか、朱印状奉者としても確認されます。武田氏が川中島合戦以降に西上野(→群馬県西部)に侵攻してこれを領国化すると、信種は1568(永禄11)年頃に箕輪城代(→城主信玄に代わって城を治める者)となり、北条氏との戦いでは小幡氏など西上野衆を率いて戦争に参加しました。三増合戦(三増峠の戦い)では、峠上に布陣する北条氏照氏邦を攻めるため馬上で指揮を執っていたところ、北条軍の流れ弾に当たり戦死したといいます。指揮官不在の浅利隊は、軍監の曾根昌世(そねまさよ)が指揮を引き継ぎ、三増合戦を乗り切ったと記されます。


浅利明神は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模国風土記稿』愛甲郡毛利庄の条に「浅利右馬助(うまのすけ)信種墓」として次のように記されています。

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浅利右馬助信種墓
古戦場中の丘上にあり、塚上に碑を建、長(ながさ)二尺八寸(→約84cm)幅一尺(→約30cm)、面に浅利墓所、裏に曾雌源知義記之と鐫(ほ)る、知義は常右衛門と称し、牧野備前守成春の家臣なり、元禄十三年(→1700年)再建すと云(いう)

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【浅利明神】
浅利明神1

浅利明神2

浅利明神3

浅利明神10

浅利明神8

浅利明神9


【浅利墓所】
浅利明神5

浅利明神6

浅利明神7


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↓↓三増合戦史跡・三増合戦について

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