fc2ブログ

荘厳寺(神奈川県藤沢市)を訪問しました

白玉山 般若院 荘厳寺(しょうごんじ→神奈川県藤沢市本町4丁目)は、鎌倉時代初期の1184(寿永4・元暦元)年に僧の覚憲が開山、1235(嘉禎元)年に覚盛が中興した高野山真言宗寺院です。江戸時代には三島山 感応院 瑞光寺(→神奈川県藤沢市大鋸2丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いますが、元文年間(→1736年~1741年)に火災で焼失したため、1747(延享4)年に別当寺として祭祀を司っていた白旗神社(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)の隣に再建...

藤沢御殿の堀跡(神奈川県藤沢市)を訪問しました

藤沢御殿の堀跡(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、現在の藤沢市民病院と藤沢公民館の間にあった藤沢御殿(→徳川将軍家の宿泊所)とその堀跡です。小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東入封を果たした1590(天正18)8月1日以降、家康は領国支配の拠点に、休憩・宿泊所として御殿や御茶屋を設置しました。御殿は、宿場町が整備される以前に江戸へ至る街道沿いの府中・小杉・神奈川・鎌倉・藤沢・中原・大磯・箱根・元箱根に作られました。...

正宗稲荷大明神(神奈川県藤沢市)を訪問しました

正宗稲荷大明神(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)は、隣接する長藤山 妙善寺(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)に稲荷社で、創建は鎌倉時代にまで遡ることができます。平安時代の高僧円仁が802(延暦21)年に彫刻したと伝わる仏像が、鎌倉時代後期に日蓮宗信者となった刀工五郎正宗により鎌倉に持ち込まれ、職業の守護神として崇敬されたと記されます。神仏習合の頃は神(→垂迹=仮の姿)は仏(→本地=本来の姿)と同じものとされていました。これを本...

妙善寺(神奈川県藤沢市)を訪問しました

長藤山 妙善寺(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)は、鎌倉時代中期の1271(文永8)年10月に配流先(→実際には守護北条宣時の館への「預かり」)の佐渡に赴く日蓮が、この地にあった真言宗寺院の真蔵院で休息をとったことから、日蓮の直弟子である日山が真蔵院住職の長藤にせまり改宗させたと伝わる日蓮宗寺院です。妙善寺はその後、比企妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)と池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の両貫主の隠居地となりますが、...

白旗神社(神奈川県藤沢市)を訪問しました

白旗神社(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、相模国一宮の寒川神社(→神奈川県高座郡寒川町宮山)を勧請して平安時代中期までに創建されており、鎌倉時代の1198(建久9)年に白玉山 般若院 荘厳寺(→神奈川県藤沢市本町4丁目)の住職覚憲が別当となり、以後1868(明治元)年の神仏分離令まで同寺が別当寺として祭祀を司りました。鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』には、源頼朝(→頼経の異母兄)の追及を受けた藤...

伝義経首洗井戸(神奈川県藤沢市)を訪問しました

伝義経首洗井戸(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、源頼朝の追及を受けた藤原泰衡(ふじわらのやすひら→奥州藤原氏4代目)に攻められ、1189(文治5)年閏4月30日、衣川館(→岩手県西磐井郡平泉町高館)で自害した源義経(→頼朝の異母弟)の首級を多と洗ったと伝わる井戸及び供養塔です。義経主従の首級は6月13日に鎌倉腰越で和田義盛・(→侍所別当)・梶原景時(→侍所所司)らによって首実検(→本人確認)が行われています。民間伝承では首実検ののち...

山田神社(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

山田神社(→神奈川県横浜市都筑区南山田町)は、室町時代中期の1445(文安5)年に創建したと伝わる妙見社を前身とする神社で、明治時代後期の1910(明治43)年、国の一村一社政策を受けて近郷の諏訪社、神明社、稲荷十社、八幡社、熱田社、熊野社、第六天社など21社を合祀し、山田神社と改称されました。合祀された1つの諏訪神社は平安時代前期の860(貞観2)年の創建と伝わる古社で、本殿横には別当寺(神宮寺)の名残りと推察される鐘楼と...

長泉寺(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

妙見山 不動院 長泉寺(→神奈川県横浜市都筑区北山田7丁目)は、創建の詳細は不明ですが、江戸時代中期の延享年間(→1744年~1747年)に死去した僧の覚推が中興開基したと記される真言宗豊山派寺院です。もとは西不動谷(→神奈川県横浜市都筑区南山田2丁目)にありましたが、江戸時代中期に現在地に移転し、この地の領主河野通有(こうのみちあり→八王子千人同心の1家)から二段五畝の畑を寄進されました。長泉寺は、江戸時代には本山・末...

茅ヶ崎城址公園(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました

茅ヶ崎城址公園(→神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東2丁目)は、港北ニュータウン遺跡群として保存されている中世城郭の1つで、戦国時代には小田原北条氏の家臣座間氏(→知行地50貫)が城代もしくは城番を務め、小机城(→神奈川県横浜市港北区小机町)を中心とする小机衆の支城として機能しました。北条氏の軍役は7貫で1人の動員が義務付けられていたため、50貫の座間氏は、本人+7人の家来を率いて参陣したことになります。茅ヶ崎城は、比高...

報国寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

功臣山 報国寺(→神奈川県鎌倉市浄明寺2丁目)は正式には「功臣山 報国建忠禅寺」といい、1334(建武元)年、鎌倉幕府滅亡後に北条氏の旧領を拝領した足利尊氏が、祖父の足利家時を開基とし、僧の天岸彗広(てんがんえこう)を開山に迎えて創建した臨済宗建長寺派寺院です。ただし、足利家時は1284(弘安7)年に死去しているため、建武の新政期にこの地を治めていた宅間上杉重兼が実際の開基と推察されます。境内には1333(元弘3)年5月18日...

杉本寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

大蔵山 杉本寺(すぎもとでら→神奈川県鎌倉市二階堂)は、奈良時代中期の734(天平6)年に光明皇后(→聖武天皇の后)の発願により藤原房前(ふささき→藤原氏北家の祖)が開基、僧の行基(→東大寺の廬舎那大仏造立に貢献)が開山したと伝わる天台宗寺院で、鎌倉最古の寺として知られています。本尊は三体の十一面観音像で、それぞれ734(天平6)年に行基が、851(仁寿元)年に円仁(→慈覚大師)が、986(寛和2)年に源信(→『往生要集』を著した恵心僧...

鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

鎌倉宮(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりよししんのう)を祭神とする、1869(明治2)年6月に明治天皇の命で創建された旧官幣中社です。護良親王は、元弘の乱(→鎌倉幕府討幕戦)の功績から建武の新政で征夷大将軍に任じられましたが、父の後醍醐と不和になり、1334(建武元)年冬に鎌倉の足利直義(ただよし→尊氏の実弟)の元に幽閉され、1335(建武2)年7月の中先代の乱に際し、直義の命を受けた淵辺義博(ふち...

荏柄天神社(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

荏柄天神社(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、平安時代後期の1104(長治安元)年に天神を敬う里人が創建したと伝わる天満宮で、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際は、大蔵御所(→神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目)の鬼門守護として崇められたといいます。神仏習合の頃は京都の東寺の末寺・一乗院(→廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。『吾妻鏡』には、1202(建仁2)年9月11日に2代将軍源頼家が菅原道真三百年忌を行い、奉幣使として政所別当大江広元を...

妙隆寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

叡昌山 妙隆寺(→神奈川県鎌倉市小町2丁目)は、南北朝時代の1385(至徳2)年に、日蓮宗に帰依した千葉胤貞が、先祖の追福供養のため氏寺の正中山 法華経寺(→千葉県市川市中山2丁目)の住職日英を招いて開山した日蓮宗寺院です。鎌倉府管国の守護は鎌倉府に出仕するため鎌倉に屋敷があり(→在倉制という)、この場所には胤貞の屋敷がありました。胤貞は肥前国小城郡と下総国千田荘・八幡荘を相続しましたが、父・宗胤が実弟の胤宗に奪われ...

大巧寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

長慶山 正覚院 大巧寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)は日蓮宗を離脱した単立寺院で、寺伝によると、鎌倉時代初期に梶原景時邸に創建された「大行寺」という名の真言宗寺院が前身で、源頼朝の祈願寺となり、頼朝がこの寺で軍評定(いくさひょうじょう→作戦会議)を行った合戦が勝利につながったことから「大巧寺」に改めたと伝わります。その後、1320(元応2)年2月に現在地へ移転し、長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)にいた日蓮に...
img { pointer-events: none; } img { -webkit-touch-callout:none; -webkit-user-select:none; -moz-touch-callout:none; -moz-user-select:none; touch-callout:none; user-select:none; }